平林 ひゅう氏

012

平林 ひゅう」氏

大学卒業後婦人服会社へ入社、その後一貫して料理の道へ。
つい最近まで茅ヶ崎で「サンマリノ」イタリアンパスタ店を経営。

 

本田 今日は宜しく御願い致します、まず最初なんですが定年されたのは何年前ですか?
平林 え〜と定年の少し前だったんですよ、有名日本料理店が横浜パンパシフィック店がちょうど
10年目で閉店になりました、本社の資金不足で。でその時47才、いや違ったこの料理店に入社
したのが47才ですから57才の時ですね(5〜6年前)

本田 簡単で構わないのですが職歴を教えて頂けますでしょうか?
平林 大学を卒業してからまず婦人服メーカーに勤めまして、経理と営業を5年程続けました。
その後父親が店を出したいというので、もともと父親はイタリア料理の料理人でしたから、
それで一緒にやろうかということになりまして、それが28才の時から7年間ですね。
父親が亡くなってからちょっと同じ味が出せない、とても継げない、またお客様もかなり
ついていてくれて、また折からのバブル時期で本当に一回のお食事で、¥15000〜¥20000程度
のコース料理が出ちゃうような小さな店だったのですが雑誌で取り上げられたりして変なブームに
のっていました。ただ私にはその味を出せるような “腕” がなかったので、またその時に人との
大きな出会いもあったりとかしたもんですから、その店を閉めましてトラックの運転手したり
一時は公務員を目指して勉強したりとかしてたんですが、その間に家内から
「預金が¥3000しかないよ!」と言われ(笑い)ちゃんと勤めるかと思い、そのときちょうど
百貨店のレストラン(フレンチ)の募集があって、そこに入社して商品開発とか、新しいタイプの
フレンチ、料理人がいなくとも提供できる真空調理の新しいフレンチを開発したりとか、で、
それと並行して洋菓子店を出したり、洋菓子工場を2カ所開設、銀座にその1号店を出店して
その後1週間後に倒れましたね。始発に家を出て終電で家に帰ってくるそんな生活がたたり狭心症で
倒れ、それでそこを辞めて自分の店を練馬で出しますが6年間くらいだったかな。イタリア料理
だったのですが、日本料理の勉強をしたくなって6年目で閉めて、日本料理の最高峰の料理店の
ドアをたたくことになります。それがちょうど47才の時ですね。そんな職歴です。

本田 では最初に入社した婦人服以外は一貫して「料理」の道ですね。
平林 そうですね、ほぼ40年近く飲食に関わってきましたね。
本田 お父様はそもそも料理人ですか?
平林 いえ、もともと画家です。画家では食べられないので、デザイン会社に勤めて電通の下請けに
いまして当時は55才が定年、その定年後料理人の道に進んだという事です。
しかもイタリア料理をやりたかったみたいで、定年後イタリア大使館に行き誰か先生を紹介してくれと頼みにいく。その当時イタリア大使館で料理長をやっていた方が女性の方なんですが、
その人に紹介されてその人のお店で働くことになる。子供(ひゅう氏)から見ていて、この人
どういう人なんだろう? と思ってましたね。

本田 であれば、お父様はもともと料理がやりたかったと?
平林 そうでしょうね、もともとやりたかったんだとおもいます。しょっちゅう家で料理を
作ってましたからね。
本田 家系じゃないですよね?
平林 違います、祖父は宮内庁に勤めていましたから。
本田 全く違いますね〜、どこから料理がでてきたんだろう?
平林 どこからでしょう〜?

本田 画家から料理へ・・・・
平林 だから私が47才の時に有名日本料理店へ入った時には何の違和感もなく、
周りもう〜ん?!といいながらでしたね。
本田 少しさかのぼってしまうのですが、中高生時代ってどんな学生だったんですか?
平林 基本的に勉強は好きではありませんでした。外遊びが好きで釣りが非常に好きでしたね。
私の家に下宿している人が釣りが好きでたまにその人に連れて行ってもらっている内に
はまりましてね。その当時中野に住んでいましたので、多摩川によく釣りに行ってました。
そんな当時だったので中学校当時に進みたい道は水産関係に行くって決めていました。
中学に入ってから目標が定まって、当時東海大学の海洋学部か水産大学だったんですね。
視力の関係で水産大学は諦めて、東海大を目指そうと思って高校受験して東海大の高校に受かり
ました。ただそれと並行して都立高校も受験していて都立高校の方が発表が後だったんですが、
両方共合格しどうしようと思ったんですが、共学(笑い)である都立高校を選んだ訳です。

本田 勉強は基本嫌いっておっしゃっていて、両方共受かるって凄いですよね。
平林 頭が良かった訳でもないでもないですが、このときが人生の一番の転機だったかも
知れません。多分東海大に進んでいたら、どこかの船に乗ってるか、研究まではいかなくても
水産会社で働いていたのかも知れません。

本田 でも小学生の時に釣りに興味を持ち、はまって、中学生の時に水産関係に定まって・・・
と言いつつなぜ都立へ?
平林 共学だったからです・・・・・・・(笑い)・・・・・・・・・・・・・・(笑い)
本田 え?
平林 男だけの世界って嫌だったんですね、中学の時に柔道始めたものですから、柔道ってそういう世界、男だけの世界(むさ苦しい・・・)

本田 何となく理解できるのですが、小学生の時に釣りに興味をもって中学生の時に水産関係に
進むと決めた上でむさ苦しいから共学・・・ですか?
平林 その時には親がお金を払っていた訳ですよ(東海高校の入学金)、親からは無駄使いして!
とは言われましたが共学が良いとは口が裂けても言えませんでしたけど・・・・(笑い!)
本田 え〜、勿体ないな〜
平林 でも後悔はしていないですね、そっちは好きな道として釣りはずっと続けていました。
そんな関係でいいのかなとも思ってました(趣味として)。
結局は大学も一般的な経済学部へ入り、波乗りやってという所に結びつく。

本田 その後も後悔は無かったですか? (水産関係への未練と言う意味で)
平林 全くなかったですね、それだけ高校が楽しかったんですね。 非常に自由な校風でしたから
最初柔道部に入部して先輩とケンカして一年で辞めて、その後自動車同好会に入る。
そこからですね車にも興味を持ち始めたたのは。
大学に入ってからもオリエンテーションなんかでも、可愛い子がいるなと思ってその娘がヨット部に
入っていったので私もヨット部へ入ったりして、そんな感じでしたから完全燃焼はしましたね。

本田 一旦水産関係を目指していたクッと方向転換する、その時に将来の仕事のイメージと
言うのは何かしらお持ちでした?
平林 無かったですね、ただサラリーマンにはなりなくないと漠然と思ってました。
本田 それはお父様の影響?
平林 ですね、当時父親はサラリーマンでしたが、やはり絵を描いたり料理をしたり、お花の
師匠もやっていた、そういう好きなことを本当は100%やりたいんだけど、子供の為に働いている、生活の為に働いているそういうものが見え隠れするんですよ、だから大人って辛い、大変なもの
だなって思いました。

本田 では、中•高校生の時に父親から仕事についてのアドバイスって言うのはありましたか?
平林 無かったですね〜、好きなことやればいいんじゃない? って言ってはいました。
あんまりこう片意地張って相談したことはないですし、また自分の進みたい方向性で生活が
成り立たないから仕方がなく働く、好きな事で食べていける可能性があるのであれば自好きな
道を選べばいいんじゃないって言う人でした。
本田 その時代の方にしては自由な考え方ですね。
今までの流れを聞いていて、最初に就いたお仕事がなぜ婦人服だったんでしょう?
平林 そう思いながらも(サラリーマンにはなりたくない、好きな仕事に就きたい)でも勤め
なきゃならないだろうっていう感じですかね。

本田 大学を卒業されて・・・
平林 その時に自分が何やりたいと言った目標が無かった訳ですから、大学時代にヨットやったり
波乗りやったり車が好きだったりと、でもそれでは食べては行かれないだろうと・・・また食べて
行く道として選びたいとは思わなかったですね。
本田 ほぉ〜
平林 波乗りの好きな仲間でサーフショップ始めた者もいましたが、そういったイメージは
無かったですね。

本田 取りあえず勤めようと思った?
平林 社会勉強の為に会社も青山にあった訳ですし、取りあえず行ってみようと思って受けたら
受かってしまった。
本田 であればやりたいと思っていた仕事では無い訳ですから、ご自分がイメージしていたもの
とギャップはなかった訳ですよね?
平林 ないですね、ただ入社して最初に配属されたのが経理でしたから、ものすごく戸惑いました
けど。ただでもそれは後になって非常に役に立つ事になります。
またそこの部長さんが変っている方で、入社してから一週間くらいはそろばんの練習でした。
(計算機がある時代にですよ)

本田 へぇ〜・・・・(笑い)
平林 数字というもののこう、お金がどこからどこへ流れていくのかとか、
本田 ではその後独立される際に役に立ちました?
平林 そうです、非常に役に立ちましたね、当時はそんなこと考えてもいませんでしたが。
行き当たりばったりと言うのは意外と後で振り返ると「あ〜そうなのか」と道筋が出来ている
かなと。(点であったものが線として繋がってくる)

本田 その後5年間お勤めになって、父親と一緒にイタリア料理を始める・・・
もともと平林さんは料理をやりたいと考えていた訳ですか?
平林 いえいえ、最初はサラリーマンにはなりたくない、と同時に料理人にだけはなりたくないと
思ってましたから。
本田 笑い・・・
平林 だからその時に店を始めたのは、父親は料理、私は表のこととお金計算とか役割分担を
決めてです、それで始めた次第で。

本田 その時料理はやりたくなかったのですか?
平林 やりたくなかったですね、だからしばらくは厨房には入らなかったです。
お客様へのサービスとワインとかをやってましたね。

本田 最初サラリーマンにはなりたくはないと考えていて、婦人服の会社に入社する。
これは社会勉強の一つとして理解は出来るのですが、料理人になりたくないと考えていて
ま、役割分担はあるものの、多分頭のどこかに料理人のイメージってあったとは思うのですが
そのあたりはいかがでしょう?
平林 父親が始めた店でも継ぐと言う意思や考えも無かったですし、また共同経営者的な感覚で
始めた次第、私の考え方の中では料理人と言うのはお金を出せば雇えると思っていましたから、
もっと表の部分、経営の方とかそちらをやりたいと考えてはいました。
本田 であれば、店を始めると言った時にはすんなり入れた?
平林 そうですね。

本田 ほぉ〜、面白かったですか?
平林 えぇ面白かったですね!、だから正直いってそこでやっていて料理に興味が湧いてきたと
言うのがあります。だから教わりたくないんですよね、父親に頭を下げてまで。
正直料理はおいしかった、また非常に高名な方にまで御越し頂く店、本当に小さな店で、それこそ
練馬の石神井公園の近く住宅街の真ん中で、場末と言うか。
“クロワッサン”(雑誌) にも特集されたりとか、近くに「だんたろう」さんとかしかも東映の
撮影所も近くにあって菅原文太さんとか撮影衣装でそのまま来たり、俳優さんとかも来たりと
いったそんなお店でした。非常に楽しくて正直儲かっていました。それからもう一店舗を
出しまして。

本田 平林さんはその間結果として厨房に入ったんですか?
平林 入らなかったです。
本田 7年続けていて入らなかった? その理由はなんでしょう?
平林 やはり領域が違いますから・・・そこは父親の領域、だから父親は表(ホール)には
決して出なかったですね。

PAGETOP
Copyright © will be” what i want to be. All Rights Reserved.
Powered by WordPress & BizVektor Theme by Vektor,Inc. technology.