和子チョーカー氏/Australia

いつもホームページを訪問下さり、また記事を読んで頂いている方々に対して
掲載が遅れましたこと深くお詫び申し上げます

さて今回は在豪歴41年、私がシドニーで仕事をしていた時の良き上司であり人生の大先輩。
オーストラリア人のご主人と今はお孫さん8人に囲まれ未だパワー衰えず、その源は?
そしてアメリカと同様に多種多様の価値観の中での経験からこれからの日本は、日本人の
有るべき姿とは? を教えて頂いた。

◽️◽️◽️人 物 紹 介

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名前   : 和子 チョーカー氏
生年月日   : 1945年3月22日
年齢   : 69才
居住地  : シドニー(在豪歴41年)
職業   : 現在シドニー美術館ガイド(ボランティア)


(写真はシドニー大学卒業時) 

ーー 1968年に最初の渡豪、これの動機は何でしょうか?
和子 某大手の自動車販売会社に勤めていて、本当は大学にいきたかったのですが父から「女が大学なんかにいく必要がない!」と言われ、自動車会社の試験を受け、受かり入社、途中から輸出部に転属して頂きはしました、その頃船が横浜に入港してくると船会社の招待(パーティー)があって、その船会社の会長さんから「これからの若いものは外国を見なければ駄目だ!」と言われ、「なんで外国に行かないのか?」、「行きたいけれどお金がないし」なんて言ったら、「どこ行きたいの?」と言われ、「どうせであれば広いところ、カナダとかオーストラリアへ行きたい!」、オーストラリアだったらうちの船が行ってるからって言われ船賃半額にしてくださって、それで1968年にオーストラリアへ行ったのが経緯です。 またこの9年前に(確か1964年だったと思います)一般の人達の海外旅行が解禁された時代で、当時1USドルが360円の時代、また外貨持ち出し制限もあって$500ドルしか持ち出せない、そんな時代でもありました。

ーー へぇ〜そんな時代ですか〜・・・、であれば最初は旅行で行ったんですね?
和子 えぇ、3週間くらい、行きは台北・台南経由、帰りはガム経由。

ーー え? 会社は辞めたんですか?
和子 普通に辞めていたらお金をもらえないから、“結婚退職”と言う形にしました(笑い)

ーー で、その帰りの船の中でご主人・イアンさんと出逢う?
和子 そうです。

ーー その当時英語力はどの程度あったのですか?
和子 もともと英語は好きだったんですけれど、でもそれほど出来ていた訳でもありません、会話の全てを把握していた訳でもないです。

ーー 日本でイアンさんとご結婚されて5年程度に日本に滞在し、その後渡豪する訳ですね。
和子 そう、そうなります。

ーー 73年て、豪州へのダイレクト便はまだ飛んでいない時代ですよね?
和子 えぇ、そんな時代ではなくシンガポール経由でしたし、また航空運賃はものすごい高い時代です。

ーー またその時代背景、海外旅行解禁間もない、父親が保守的な考え方の持ち主であって外人と結婚すること自体も稀でなかったのではないかと思いますし、まして海外に住むこと自体想像に難いですよね?
和子 まず外人との結婚ですが、父親は海軍出身だったので英語もできていましたし英語の書物など読んでいたので免疫はあったのではないかと思いますが、私が真剣に結婚を考えているいることを父に伝え、3ヶ月程度一緒に生活して試してみようと伝えた瞬間に激怒されそれから3ヶ月程口はききませんでした(笑)、その時に「試して」などと言わずきちんと結婚しますと言っていれば良かったのかも知れません。また日本を離れることについてですが、外人と結婚しているので、「いずれは」と思っていましたし、子供二人は当然ハーフ、日本の街中を歩いているとモデルになりませんか?と良く声をかけられ、この子達はこのまま日本にいたら特別な子供になったしまう危機感、ハーフがいい、ハーフが可愛いみたいな時代だったので、普通の子に育たない気がしましたので。

ーー へぇ〜、なるほど時代が違う・・・、話が前後して申し訳ないのですが、どんな中・高生時代を送っていたのでしょうか? 勉強は好きだったほうですか?
和子 えぇ勉強は好きでしたし、できていたほうだったと思います。中学時代
の担任が英語の教師であり、また母方の祖父が当時陸軍幼年学校のフランス語の教師も勤めていたこともありその影響もあってか語学は好きでした。

ーー 陸軍幼年学校?
和子 菊の御紋があった学校、将来の士官を育てる学校です。

ーー へぇ〜凄い! 家系なんです〜ねぇ〜。
和子 英語自体は好きだったんですが、担任が凄い量の宿題を出す方で、途中から嫌になってしまう、宿題は提出していなかった気がします(笑い)

ーー そういう学生時代、そういう環境だったんですね。
和子 えぇ、好きだったとは思います、出来た出来ないは別として。

ーー そういう背景があって高校を卒業され大学に進学しようかと思いきや、父親に反対され車の会社に入った、その会社を選んだ理由は何でしょう?
和子 取り敢えず一流どころ、それが理由です、又ある程度車が好きだったと言うのがあります、父親が好きだったのでその影響もあるとは思います。

ーー 最初に配属されたのは輸出部門ですか?
和子 いいえ、最初は政府関連の部署、日本の政府に車を収める静かな部署、お役所みたいなところで、私自身はもうちょっと忙しい部署で仕事がしたいと考え、上司に相談したところ輸出部門に配置転換して頂きましたが、もの凄く忙しい部署で、「あ、しまった!」と思いましたが後の祭り、本当に大変でした。

ーー 実際大変だったかとは思いますが、お話を聞いていると何か楽しそう!
和子 そうですね、その時代日本の経済が登り調子で、ある会社を追い越せ追い抜けと言った風潮があって会社が一丸となっていた気がします。

ーー う〜ん、いい時代だ! 話を続けさせた頂きますが車の会社に4〜5年ほどいらっしゃって海運会社の会長さんに触発され初めて豪州へ旅行し、その帰りの船でご主人と出会い結婚し73年に渡豪される。そして渡豪後最初の仕事は?
和子 マグロ漁船の通訳でした、少し英語ができたのもあってそうなるのですが
当時3人目の子供が生まれたばかりで一旦は断ろうとするのですが、タクシーを半日用意してくれて
そのタクシーの中にオムツやら乳製品やら詰め込んで仕事していました。当時「マグロ一匹丸ごと」貰ったり、当然冷凍でガチガチ、糸のこでしか切れないので台所中血だらけ、主人にはもう貰ってこないでくれと言われたり、あと頂いたのは「至極新鮮なイカ」ご近所のイタリア人、ギリシャ人とかに配ったりして大層喜ばれたりもしました。

ーー その当時シドニーは何名程度の日本人がいたのでしょうか? 大まかで構いませんが。
和子 う〜ん、調べていないので詳しい数はわかりませんが、街中で日本人を見かけることはなく、日本の商社の人、買い付けに来ている方々はノース地区にある豪邸に住んでいて、特にノースブリッジには多く住んでいた気はします、私はイタリア人とか多かったウエスト地区、貧民層(笑)の住む地域、日本人は全くと言っていい程いませんでしたね。

ーー へぇ〜そんな時代なんですね〜。
和子 私が通訳の次に就いたガイドの仕事をしていた時代、日本からのお客様は月に1本もあるかないか、冬の間の三ヶ月間は全く仕事がなかったそんな時代です。

ーー そうですか、私が中学生の頃と言うのはさすがにオーストラリアと言うのは頭にはなかったです、アメリカはありましたけど。(笑い)
和子 その頃のお客様というのは一グループ20〜30人ご夫婦でいらっしゃり20日間程度の行程でご旅行されていて、ヨーロッパやアメリカ至る所に行き尽くして行く所がないから、オーストラリアへ来た!といったお金持ちの方々はばかりでした。その当時のシドニーにはスーパーなんてものはありませんでしたしデパートといえば、デビットジョーンズとグレースブラザースくらいで、これらがスーパーに毛が生え程度のスーパーみたいなデパート、またサイズもやたらと大きくて洋服やら下着は本当に困りましたので、毎月日本からの送って貰っていました。

ーー 良い意味でも悪い意味でも大雑把 な国民性!
和子 えぇそうだと思います、本当に今思い返すと凄い時代、今と違って色々なものが何もない時代、でも暮らせはしますけどね。

ーー 確かに無ければないでそれなりに暮らしてはいけるんですよね。
和子 なんでもあるとそのものが欲しくなるし。その当時街のお店も夕方五時には全て閉まってしまう、土曜日は12時までしか開いていない当然日曜は休み、
ある土曜日にふと気づくと12時近く急いでお店に行ってまだ何人かお店の中にいるのに絶対に入れてくれない、そんな悔しい思いもしましたし涙が・・・しょうがないのでよく街のコーナーにあるミルクバーで、不味いし高いお肉を買うしかない、な〜んかそんな哀しい(笑い)時代でもありました。
(今は便利な世の中になりました!)肉や魚も切り身では売っていない、なのでまるごと特にチキン、魚を買って自分でさばかなければならないので、何でも出来るようにはなりました。

 

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