右田 哲郎氏

人 物 紹 介
名前   : 右田 哲朗氏
年齢   : 45才
生年月日 : 1969年1月27日生まれ、父、母、弟、妹の3人兄弟の長男。
家族構成 : 妻 猫一匹
会社名  : 「元気と情熱株式会社」                                                                                           
設立年月日     : 1999年4月8日(焼き鳥屋創業)/ 2002年1月24日(会社設立)
支店/従業員数: 9店舗 社員15名 アルバイト・パート70名
ホームページ  : 
http://www.moja.co.jp/index.html

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学生時代(13才〜20才くらいまで)

本田:今日はお忙しい中貴重なお時間を頂き有難うございます。
それでは、インタビューを初めさせて頂きます。
お聞きしたのは、3つに構成されていて、
1)      学生時代(主に中高生時代、13才〜20才)
2)      就職前後のヒストリー(20才〜)
3)      起業後

本田:お父様は何をしていらしたんですか?
右田:父親はもう亡くなっているんですが、2部上場の測量会社の設計士でした。

本田:では今の右田さんとは全くの畑違いなんですね。
右田:そうですね、祖父が右田財閥っていう位千葉県松戸市で自分の会社を大きくして
いました。元々志願兵で根性があって軍曹まであがった人、終戦を迎え
軍(陸軍)の中で
測量技術を学び終戦後その技術をそのまま生かして40代の時に独立して、
わずか10年余で
千葉県・松戸市の町づくりを行うトップとなり、その仕事を全て自分の会社で請け負うと
言ったところまであがっていく、また千葉県土地家屋調査士会・会長を兼ねていて、
千葉県ではかなりの実力者でした。軍隊上がりのため父親(右田氏の父親)に対しては
非常に厳しく、スパルタ教育で殴られたり、きつかったと思いますよ。

本田:では、その祖父の“血(DNA)”が右田さんには流れてる!
右田:そうですね、ま、男気と気の強いところは祖父譲りですかね

本田:気が強いっていうより、“肝が座っている” と言うか “根性” みたいなものかな。
右田:えぇ、親分肌みたいな所はありますね。父親が28才位の時私が4才、
祖父の心臓に薬莢が残っていて(戦争時の遺物)それを手術で除去すると言うので、
じゃ、“行ってくるな” と私に言って、そのまま逝ってしまう。遺書はあったのですが、
本人は生きるつもりであったと思うんですけどね。私が覚えているのは入院の直前、
“おじいちゃんバイバイ!” でした。8時間か10時間後には冷たくなっていた。それが
いわゆる「大金持ちのお孫さん」っていう所から私の人生が始まる訳です。
祖父が
そんなことで亡くなってしまい、遺産を相続した父親は20代後半で大金持ちの息子、
毎日遊びほうけて今でいう遊び人になってしまう。その後改心し会社を継ぐのですが、
一年で会社を
潰してしまいます。祖父が頑然たる力を持っていながら亡くなったと同時に
ライバル会社に
次々と地位や取引先等々全て持っていかれます、結局父親は20代後半の
経験も余りない若い
社長だったのと、しかも遊んでいましたから一気に没落していきます。
祖父が経営者して隆盛を誇っていた当時、昭和47〜8年頃毎年お寺に500万円程寄付
していました。

本田:500万? 当時の寄付の額としてはすごい額ですね!
右田:今で言うと、1億〜2億円サイズの土地を20程持っている程の大金持ちでした、
ただこれらの相続税を国に支払わなければならず物納した為に、残りわずかになりは
しましたが、
一族の名義に書き換えた土地はまだ4〜5は残したほどの祖父でした。
その後父親が会社を継いで1年後には会社を潰してしまってからは貧乏生活に入る事になる。
自分の枕に新聞紙を詰めると言った貧乏振りですよ、ちょっとホントにもうお金がない時代、
借家の小さい家でしたが父親が一念発起して勉強し、一級設計士の資格をとり、生前祖父から
この会社へ入れと言われていた2部上場の測量会社に入社することになる。給料が10万円、
家賃が6万円、残りの4万円を家族4人で生活していた母親が嘆いていた、6才から10才くらい
までのそんな貧乏生活。私が10才位の時に父親が会社で実力を
持ち始めるようになり、
その勢いで友達と会社を作り、
その会社の専務に収まり役員報酬を得て、少しは生活が楽には
なりましたがそう長続きはせず、ある事情によりこの会社も潰れてしまい、責任者(社長)では
なかったために実害はなく、元働いていた会社の給料で生活をする形に戻る、がその景気の
良かった時代に自分の家を建て、家のローン毎月13万、父親の給料が上がったとはいえ、
手取りで17〜18万円、ローンを差し引けばまた元の生活状況に戻ってしまう。妹も生まれ
家族5人でどうやって生活していくのかと言う問題を再び抱えてしまいますが、“ど根性の母親”
が(ここで登場!)が保
険の外交を始め生活が少しずつ潤うようになってくる。けれども生活が
楽になることにより、
父親がまた飲みにではじめ元の木阿弥になってしまう時期が続く。この時に
両親の離婚問題が持ち上がり、その時の自分の素直な気持ちとして、
「お金があったらなぁ〜」
「早くお金を稼ぐようになって母親や兄弟を楽にしてやりたい」と思い始める、そんな頃です。

本田:そう思い始めた時期って小学校5年生くらいの時ですか?
右田:そうですね、そのくらいです。その時にはっきりとした映像が頭に残っていて、祖父が
残した松戸駅から徒歩2分位(一等地)の所に家があり駐車場には新車、それを囲むように
バラの花、庭師も入っていたのでいつも奇麗な庭の思い出と共に、年末祖父に肩車され市場へ
年末の挨拶用にと荒巻鮭を買いにいく、陳列台の横一列に並んでいる30匹ほどの鮭を全て
購入すると言う豪快な祖父、そしてそれを購入できる財力を目の当たりにした幼い時の鮮明な
映像が脳裏を横切り、貧乏であると同時に、“そうなりたい” “そうならなくちゃいけない” と
言う気持ちが芽生え初めたのもこの時期ですね。お金に対する意識、考え方が変わり、
じゃどうなりたい? と自問した時に私の中ではお金を稼ぐようになるには、
「鮭を全てかえるようになる」「なりたい!」と思い始めます、何でもいいから社長になるって
この時幼いながらも決めました!

本田:そうか〜、この辺りに今の右田さんの原点があるわけですね。
右田:そうですね、お金がない、ローンが払えない、いっそ離婚して父親がお金を使わなければ
収入が少ない母親でもやっていけるのではないかと。一旦は父親と別れます、が結果として父親が
家族に謝罪し元に戻るのですが、またしても父親は遊びに饗するようになってしまい、中学生の
時分新学期に必要な新しいノートや体操着も買えないそんな状況でした。

本田:そんな(貧乏・・失礼)生活をしながら、一体どんな小学生、中学生だったんだろう?
勉強はした? というよりできる環境だったのかな?
右田:勉強は・・・・しなかったですね、中2くらいの時に父親から夏にアルバイトをしろと
言われ工事現場で働いた事もありますが、そのため秋には学力低下! けれどこれじゃまずい!
と思い、そのアルバイトで貯めたお金で冬に塾通いをはじめ学年で2番になる、俺ってやれば
できるじゃん! いつもは350人中100位くらいだったのが、東大早慶いけるんじゃないかと
思い始めます、勉強している最中に眠くなると、ドライバーで自分の足を刺したりとかして、
一旦始めると “がむしゃら” になってしまう、その時は日に12時間くらい勉強するそんな
学生でした。

本田:1日12時間・・・・・凄い! 俺ってやればできんじゃん、また父親からバイトを
しろって言われ、仕事なるものを経験している訳ですよね、その時に将来の仕事に対しての
目標やイメージするものってあったのでしょうか?
右田:う〜ん、ないですね。ただ唯一心に残っていることを挙げるとしたら、夏休みに工事現場で
働いていた50代中盤のおじさんに言われた事、それが凄く鮮明に
記憶に残っていて、それが
今のきっかけになったと言っても過言ではないのかな? 
とも思います。
彼の言葉(方言混じり):
「俺は中卒でや、“学” もないからな〜、俺の夢は息子二人を大学出すことだったんだ〜と。
今長男は大学4年で、二人目が受かった〜、金掛かった〜。ボッコ掘り(穴掘り)なんかに
就いちゃだめだぞ〜、雨が降れば仕事はないし。な〜って、スーツ着てネクタイして、絶対大学に
いけよ〜」あ〜そうか、この人自分の人生に全然満足していないんだなって
感じましたね。
ただ彼の唯一の望み、一縷の望みと言うか、息子達を大学出すことだけに
生き甲斐を感じていた。
ただそれは人それぞれの価値観だから何とも言えませんが、
だから私は
「自分の仕事で満足できない仕事に就いたらいけない!」とこの時に思いましたね。それは別に
“ボッコ” することが自分の使命であると感ずればそれはそれでいいのですが、
この時に、早く自分の使命を探さなきゃだめだなと強く感じました。

本田:なるほど〜。
右田:ルートが決まっている仕事に就いたらいけない、例えば学校の先生、先生になる方法と
言うのは決まっていますよね、それじゃいけない(右田氏の場合)僕は人並み外れた以上のお金が
欲しいから・・・・そんなルートではお金持ちにはなれない。40才になった時に、同じような
40才が集まった時に収入が1番じゃないと駄目だと、その時に思っていましたから実際今は仙台
でも医者、弁護士以外では一番になりましたからね。お金への拘り、
ミッション(使命)を
見つける、仕事を何となくではなく、絶対見つけると
言うことを中学生の時に気づきました。
小学校5年生の時には“社長になる”とも思っていましたから。何をやるかわからないけど、
ミッションはありましたね。

本田:もう既に小学生の時からミッションを持ったんですね。
右田:ぼや〜とはしていましたけど、そう、そう言う枠組みみたいなものはありましたね。
だから高校生の時には、日本で有名な社長の自叙伝「本田宗一郎」(HONDA車メーカーの創業者)
松下幸之助、森田氏(ソニー創業者の一人)をよく読むようになりました。

本田:そんな本を高校生で?
右田:ええ、ビジネス本が大好きでした。

本田:それで高校へ入って、大学進学を考えていた?
右田:はい、結果として受験には失敗はするんですが、一応進学校でしたから。

本田:失敗するというか、勉強はしなかったと言う方がむしろ正解?
右田:そうですね〜、高校2年位までサッカーに狂ってものすごく練習していましたが、スパイク
が買えない(家庭の事情)からバイトを始め練習に出れなくなる、やっとお金をためてスパイクを
買って練習に戻っても練習量が足りないとの理由でレギュラーから降ろされると言った
そんな
悪循環な時期でもあった訳です。スパイクを買う為にモスバーガーでバイトしたり
(時給450円)
で、そんなことばかりしていて当時は高校にあまり行ってはいませんでした。
ですが高校2年生の
終わりも近づいた時に女性に非常に“モテル”と言うことに気付き(笑い)、
こりゃ結構
いけるな〜と想い楽しくなって、ディスコに行ったり、当時新宿の“アップル”とかで
軟派したり
とかしていましたね(大笑い!)。そんなかんなでバイトばかりしていてデニーズで
皿洗い、
パン工場でとそんな時期でした。大学受験は失敗、弟や妹もいるから親からは浪人は
させないと
言われ、結局は英語の専門学校に行く訳です、帰属意識が強かったっていうのかな、
どこかの
グループに属していれば安心みたいなものがあって専門学校に入ることになります。
ある理由が
あって旅行英語科に、当時「男女7人夏物語り」のドラマの中で、
“さんま” が演じていた
「ツアコン」(添乗員)て、何か格好いいなって思った訳ですよ。
ここは大学受験に失敗した
男女が、また学校側も金集めで、入学してくる専門学校なんですよ、でもこの時にも
また、
居酒屋で夜から朝までバイトをします、今で言う白木屋みたいなところで。授業が夕方の
4時に
終わって5時から朝の5時位まで、そうすると松戸の実家には帰れないので、
よくありがちな
パターン、新宿に住んでいる友達の家に泊まることになる。で、学校に
行かなくなる、給料も
15〜16万円くらいもらっていたのかな、で、遊ぶ。これの繰り返しを一
年、で留年になる、
遊んでいるからお金も貯まらない。
母親からは「哲朗、約束でしょ、2年目は自分で授業料払うんだよね!」
「はい、判りました、辞めます(学校)」となっていく訳です。

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